News 新着情報
「分かってほしい」が、なぜ伝わらないのか
人は、自分に対して説得の言葉を向けられると、かえって拒否反応を示すことがある。
それは、ある意味では当然のことなのかもしれない。
相手は良かれと思って、
「こうした方がいいのではないか」
「その考え方は少し違うのではないか」
と言ってくれている。
しかし、その言葉の裏側には、どうしても
「あなたは間違っていますよ」
という意味が含まれているように感じてしまう。
もちろん、話している本人には、そこまで強い意図はないかもしれない。
それでも、受け取る側としては、自分自身を否定されたように感じてしまうことがある。
自分にとっての「普通」は、自分では気づきにくい
人は誰しも、自分自身を基準にして生きている。
自分が考えていること、自分が普段やっていることは、自分にとってはごく普通のことである。
長く続けている習慣であれば、なおさら疑問を持つことすらない。
そのため、他人から
「それは普通ではない」
「別の考え方もある」
と言われても、簡単には受け入れにくい。
内容が正しいかどうか以前に、自分自身を守ろうとする気持ちが先に働くのだと思う。
では、どのようなときなら、人は比較的素直に別の考え方を受け入れられるのだろうか。
自分で選んだものは受け入れやすい
例えば、本を読むことがある。
本の中に書かれていることを読みながら、
「これは自分にも当てはまるかもしれない」
「自分も少し考え方を変えた方がいいかもしれない」
と感じることがある。
誰かに直接指摘されたわけではない。
それでも、自分自身に照らし合わせて考えることで、素直に受け入れられることがある。
ただし、本も少しくせ者である。
自分で興味を持って選んだ本なら比較的入りやすいが、誰かから
「あなたはこれを読んだ方がいい」
と渡された本になると、途端に事情が変わることもある。
その時点で、
「自分に何か問題があると思っているのだろうか」
という気持ちが生まれてしまえば、せっかく良いことが書いてあっても、素直には読めなくなる。
結局、内容だけではなく、
「誰から、どのように渡されたか」
も大きく影響するのである。
第三者の話だからこそ気づけることがある
全く関係のない第三者の体験談も、自分の考えを見直すきっかけになりやすい。
例えば、日本で暮らしていると、日本の嫌なところや、日本人の気になるところが目につくことがある。
しかし、自分が海外へ行ってみたり、海外で暮らした人の話を聞いたりすると、見え方が変わる。
「日本は思っていた以上に安全なのだな」
「これは日本では当たり前だと思っていたけれど、世界では当たり前ではないのだな」
そんなことに気づく。
誰かに「日本の良さを理解しなさい」と説得されたわけではない。
別の世界を知った結果、自分自身で比較し、自分自身で納得しているのである。
おそらく、人が考えを変えるときには、この「自分で気づいた」という感覚が大切なのだと思う。
分かりやすく言えば伝わる、とは限らない
誰かに、
「もう少し視野を広げてほしい」
「その考え方を少し変えた方がいいのではないか」
と思うことは、誰にでもあると思う。
そんなとき、ストレートに言えば、確かに意味は伝わりやすい。
しかし、「伝わること」と「受け入れられること」は全く別の話である。
はっきり言えば反発される。
だからといって、抽象的に遠回しな話をすれば、今度は何を言いたいのか分かってもらえない。
第三者から何かを言ってもらうという方法もあるかもしれないが、あまり策略的になれば、それはそれで姑息な感じがする。
このあたりのバランスは、本当に難しい。
人を変えようとしすぎない
そして、考えていくと、そもそも
「相手の考えを変えてやろう」
と思うこと自体が、少しおこがましいのかもしれない。
自分の考えが絶対に正しいとは限らない。
相手には相手の経験があり、事情があり、その人なりの価値観がある。
こちらからできることは、別の考え方を示したり、自分の経験を話したり、何か考えるための材料を渡したりすることくらいなのだと思う。
それを受け取るかどうかは相手次第である。
説得して変えるのではなく、何かのきっかけを置いておく。
そして、いつか本人が自分で気づけば、それでいい。
人は、誰かに変えられたときよりも、自分自身で気づいたときの方が、ずっと素直に変わることができるのではないだろうか。
豊アルケミー株式会社
代表取締役 桐山 宗久